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日式毒雞湯:你終將被朋友圈點贊吞噬的自我

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無論是INS推特,還是微博朋友圈。

padding-bottom: 100%;">日式毒雞湯:你終將被朋友圈點贊吞噬的自我

無論是日本人,還是中國人。

我們做着一樣的事,逃避着同樣乏力的日常。

よくニホンザルが羣れの仲間同士で毛づくろいしてるじゃないですか。

日本猿猴不是經常抱團梳理同伴的毛髮嘛。

インスタにハートつけてる人たちって、要するに人間が社會的に生きていくためにやるグルーミングだと思うんですよね。

在我看來,人們在Instagram上給別人點贊,就如同爲了在社會上生存下去,而給同伴梳理毛髮一樣。

私はあなたの仲間ですよ、あなたのクソ寫真を見てますよ、っていう意思表示ではないかっていう。

我是你的同伴哦,我有在看你的爛照片哦,點贊是在表示這樣的意思。

イラつきとは裏腹にとる「いいね」という行動

和怒上心頭的心情相反的點贊行爲

人類學者のロビン・ダンバーさんというおっさんが提唱した「ダンバー數」ってのは、そういう“人類が安定的な社會関係を維持できる人數の認知的な上限”を指しておりまして、その數は約150人ぐらいとされています。

人類學家羅賓·鄧巴這位大叔提出了“鄧巴數字”,指出“人類智力允許人類擁有的穩定社交關係人數有上限”,約在150人。

そういう理性的な思考からすれば、インスタやFacebookの「いいね」だろうがLINEグループの既読だろうが、どれもネットの最新技術を使った「あなたを尊重していますよ」という意味をあらわすものだと思うのです。

從這樣的理性思考來看,無論是Instagram還是Facebook的點贊,亦或是LINE小組信息的已讀,都是利用網絡的最新科技表達“我尊重你”的意思。

しかし感情は別だ。私の聖なるタイムラインにババアが夜プール浸かってポーズ決めてる寫真が流れてきたのを、ほろ酔いの帰宅途上の電車の中で閲覧してしまったときに感じる怒りはどこにやればいいのか。

但情緒又另當別論。有些微醺地在回家的電車上,在我神聖的LINE朋友圈看到不再年輕的大嬸泡在夜間泳池裏擺拍的照片,涌上心頭的怒氣要何處安放。

長蛇の列になっているスーパーのレジ待ち中に見せつけられる、パリピが料理や酒を囲んでウェーイとやってる畫像。ぎゅうぎゅう満員の通勤電車に揺られている最中に友人がスキーリフトに乗っている寫真。ムカつくんですよね。神風でも吹いてリフトからまっさかさまに落ちねえかな。そのように思うことが少なくないのであります。

排在超市收銀的長隊裏,看到熱衷聚會的人被美食美酒包圍歡呼着的照片。隨着滿滿當當的上下班電車搖晃的正當口,看見朋友乘着(滑雪場登山用)吊車的照片。難免會不爽。能不能哪裏來陣神風把吊車吹下去啊。這樣陰暗的想法也不是從沒有過。

しかし、剎那に感じたイラつきとは裏腹にとる行動は違います。あろうことか、イラ立つ感情を見事なアンガーコントロールのもと吐く息とともに制御し、おもむろに 「いいね!」を押したりハートをつけたりするのです。ちくしょうと思いながら、羨ましいと感じながら、お前らは受け取っているでしょうか。

但採取的行動卻和瞬間感受到的不爽相反。不可思議般地將不能控制的怒氣隨氣息吸吐出去,成功把控住了自己。再緩緩把贊給點了。一邊覺得可惡,一邊覺得羨慕,但還是接受了。

私だって義務から解放されるのならば、いつまでもゲームをしていたい。好きな音楽を聴き、いつまでもTwitterでアホを煽って罵り合っていたい。

如果能從義務中解放出來,我也會一直打遊戲、聽喜歡的音樂、和推特上的白癡戰到天荒地老。

しかしながら、現実で起きていることは生活そのものであって、カネがあろうがなかろうが、仕事や家庭がどれだけ円満に回っていようと、そこに橫たわっているのは常に我慢と妥協であります。

但現實中發生的一切都是生活,不管有沒有錢,不管工作和家庭是否美滿,生活中永遠充滿着忍受和妥協。

毎日を100%の幸福に包まれながら生きている奴は少なかろうと思います。

每天的生活都被百分百的幸福包圍着的人是極少的。

そのぐらい、現代社會を大過なく無難に生き抜くには忍耐が必要であり、自分を一定割合殺し、世の中と折り合い、クソみたいな投稿にハートをつけながら生きていくのが人生なのであります。

要在現代社會中無過兒安穩地生存下來這樣的忍耐是必須的,一定程度扼殺自我,屈服於社會,給別人一文不值的發佈內容點贊,即是人生。

もちろん、感動する畫像もありますよ。心から「おめでとう」と贈りたい言葉もある。

當然,令人感動的圖片是有的。看了讓人從心底想要說一句“恭喜”的文字也是有的。

しかしながら、無いものを持つ友人がそれを楽しんでいる姿は、羨望でもあり、ストレスでもある。

但是,看着擁有自己沒有的東西的朋友享受其中的樣子,既有羨慕,也有壓力。

気がつくとSNSを立ち上げているのです、仲間內とグルーミングをするために。というか、ネットでSNSを2日も更新しなければ死亡説が流されるぐらい、この世の中は強い緊張感と相互監視のシステムが出來上がってしまっています。

等意識到的時候,爲了和夥伴互相梳理皮毛,已經建好了社交賬號。倒不如說,如今兩天沒有在社交賬號上更新內容就有人懷疑你是不是已經死了,這個世界中極強的緊張感和相互監視的系統已經建立起來了。

家族のいない奴はだいたい飯や風景の寫真ばっかりが流れてきて、灑落た場所に出入りし始めたようなら「お。あのおっさんにもようやく遅い春がきたのか」と思い、愛妻家を自稱している奴が家族の行楽寫真を掲載しなくなったら何らかの不和ではないかと疑う。

沒有成家的人一般都傳的是餐食和風景的照片,一旦開始出入時髦的地方,就會覺得“哎喲,這個大叔終於迎來晚春了。”自稱極愛老婆的傢伙一旦開始不上傳家人一起遊玩的照片,就會懷疑是不是關係出現了問題。

何かあるたびに「ヤバイ」とか「感動した」などと絵文字つきで毒にも薬にもならない感想を垂れ流してくる知能指數の低い馬鹿も少なくありません。

而不管是什麼,每次都發出“厲害了”、“好感動”之類帶有顏文字的感想,讓人感覺不痛不癢的智商較低的笨蛋也是不少。

さらには「私は私らしく」やら「ひたむきに生きている私が好き」やらの自己肯定ワードがちりばめられた何も言えねえ感じの糞コメントが量産されているのはもはや公害とも言える社會問題ではないかと思います。

甚者,裝點着“我要活出我風格”或是“我喜歡一心向前地生活”等自我肯定詞彙的爛評論被量產,已經可以說成爲了公害,可以算是社會問題了。

お前の生き方なんか知らねえよ馬鹿。

白癡,誰知道你的生活方式哦。

何か買うと「自分にご褒美」とか言ってるし、レストラン行って「人生最高の時」なんてのを夜泣きしてる子供寢かしているときに見ちゃうと血圧が上がるんですよね。

晚上哄啼哭的孩子入睡時看到,說着“給自己的獎賞”而買了什麼,在餐廳說着“(現在是)人生最棒的時刻”之類的內容,血壓難免上升。

そして、そこについてる友人たちのコメントがまたグルーミング。犬見れば「かわいい」、何かしてれば「悽い」、プールやパーティーで自撮りしてれば「綺麗」。

而這些內容下面,朋友的評論又在抱團擼毛。看到小狗就是“好可愛”,做了什麼事就是“好厲害”,泳池或聚會上的自拍就是“好漂亮”。

まあ、他に言うことないからしょうがないんだけどさ。それ、本気で思ってるのかな。

嘛,也沒什麼其他的好說也是沒辦法。但你的評論真的是心中所想嗎?

でも押すのは「ハート」。もうね、いいんだよ。頑張ったんだね。

但還是點讚了。真的是,夠了。真的很努力了。

幸せをアピールして、グルーミング先にマウント取りたかったんでしょ。分かるわ、その気持ち。

炫耀着自己的幸福,在和朋友抱團點贊取暖前,想要先提高自己的人生綜合排名是吧。這種心情,大家都懂的。

 

悪いときや辛いときにinstagramに畫像なんて上げる気分にならないもんね。

心情真的很差,覺得艱辛的時候,纔不會有空到instagram上傳圖片呢。

やっぱりInstagramに必要なものは、火炎放射器もったモヒカンが馬乗って闖入してくる、そういう躍動感ですよ。

果然Instagram需要的是,頂着莫西幹髮型騎着馬扛着火焰噴射器闖入的躍動感。

村は焼かれ、灰に塗(まみ)れて命からがら逃げだしてきたインスタグラマーがすべてを失って呆然としているさまが見たい。

想要看到那些沉迷於INS中的人,彷彿村莊被燒燬,臉上滿是菸灰而殘留一命,呆滯茫然的樣子。

さあ、銃を取れ。満面の笑みと自己肯定感に溢れたあの軟弱なクズどもに現実を見せてやるんだ。

來吧,舉起槍。讓滿面笑容洋溢着自我肯定其實是軟弱的渣渣的人看清現實吧。

着飾ったオールドミスに婚活の厳しさを、楽し気に浮かれるパーティーピープルには増大し続ける社會保障費負擔の明細を、遊び惚ける大學生には志望動機・特技が書けない就職活動の恐ろしさを。

讓粉飾歲月靜好的大齡女青年明白,如果最終是想結婚的話,現在的形勢有多嚴峻;

讓沉迷於聚會歡樂的人看看,持續增長的社會保障金的負擔明細;

讓只知玩樂的大學生了解,求職過程中簡歷上的入職動機和特長沒有東西好寫的可怕。

綺麗事は綺麗事として弁えつつも、己の中のゲスとも向かい合えよ。

要能夠理解美好的事物,同時也要坦然面對自己心中的人渣。

光あれば闇あり。他人の幸運も祝福したり物慾しそうな顔したりしながら、退屈せず日々を生き抜いていくのです。

有光明就有黑暗。祝福他人的幸運,坦然面對自己對物質的慾望,在虛無的每一天活出自己。

いずれ、精神も失われ、肉體がガスとなって地球と混ざり合うそのときまで。

一直到,靈魂散去,肉體消失,和地球合二爲一的那天。

翻譯爲滬江日語原創,未經授權禁止轉載。

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